ウイスキーの製造で、唯一の「生き物」が主役になる工程があります。発酵——そこで働くのが酵母です。りんご、洋梨、バナナといった華やかな香りの多くは、実は果物ではなく、この微生物が糖を食べて出す代謝物。見えない職人の仕事を覗いてみましょう。
01 酵母は何をしているのか
酵母(サッカロミセス属の菌)は、糖を食べてアルコールと炭酸ガスを出します——これが発酵の本業です。しかし副業として、様々な香味成分も生成します。中でも重要なのがエステル類——酢酸イソアミル(バナナ様)、カプロン酸エチル(りんご様)などで、ウイスキーのフルーティさの正体です。つまり「この酒は華やか」という評価は、かなりの部分、酵母への評価でもあるのです。同じ麦汁でも、酵母の種類と発酵条件が違えば、生まれる香りは変わります。
02 自家酵母という財産
一部の蒸溜所や、特にバーボンの世界では、独自の酵母株を「企業秘密の財産」として守り続ける文化があります。禁酒法を越えて受け継がれた酵母、代々冷凍保存される門外不出の株——「この味を出せるのはこの酵母だけ」という蒸溜所にとって、酵母は樽やスチルと同格の資産です。フォアローゼズが5種の酵母を使い分けるように(専用記事あり)、酵母は「隠し味の絵の具」でもあります。
03 飲み手の視点
酵母の違いを飲み分けるのは至難ですが、「なぜこの酒はこんなにフルーティなのか」という問いの答えの一つが酵母だと知っておくと、味わいの解像度が上がります。果物を一切使っていないのに、りんごや洋梨が香る——その不思議の正体は、発酵槽で数日間せっせと働いた、目に見えない微生物なのです。次にフルーティな一杯に出会ったら、酵母という職人に静かに乾杯を。